佐藤けんじ

佐藤けんじ 道南発、日本の未来。

佐藤けんじ
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No. 53 /2006/10/17
日本の核武装

タブーとはこういうことなんだ。と思ったのがこの日本核武装論である。外国にいるとニューヨークタイムズ、ウォールストリートジャーナルなんかを読む。日本は読売の海外版なんかたまに目にした。論調の違いは歴然であった。日本が戦後60年間、平和を願う諸国民の公正と信義、、、。をまさにアタリマエのように信奉してきたけど、論調は全て国内でのみ平和を論議しているだけだった。これがニッポンの平和憲法だと、言ってきたけど紛争の当事国の人は「自分たちを殺しに来る人達から守ってくれない国」はもちろん、憲法の制約があるから紛争地域の国連のPKOもだめとかいっても、なんで?それじゃこの世界で平和を創れないじゃない。日本のいうは自分の国だけの平和なの?命をかけて平和も平和を創ろうとする人達のこと、どう思っているの?ソウイウヒトタチハ、ニホンジンジャナイシ、クニモモチロン、ニホンジャナイだけ。確かに結果はそうなる。日本の平和への意思と国内法規範の体系は世界を残念だけど動かせていない60年。平和の破られた現実の危機が世界にはある。よりによって自国のとなりに、思い通りにならないと、いつも宣戦布告だという国がある。言うだけならいいけど実際大量破壊型の武器までチャクチャクと準備しているし、日本人を勝手に拉致までしてきた国がある。ブラフ(恫喝)に客観的な実体が伴っている。明らかな敵意としか言いようが無い。
不服従を唱えたガンジーは凶弾に倒れた英雄であろう。しかしインドという国が倒れては、話にならなかっただろう。それではただの亡国の徒輩である。平和を唱え続けた崇高な英雄国家として、歴史には留まるけど、現実に国の壊滅という悲惨な結末を甘受する気は日本には毛頭ないハズ。
核による「抑止」は、既成事実を積み上げられてしまった時には、効果がなかったことになる。冷戦の枠組みの中では、日本の安全保障の無力もまだ言い訳になった時代が終わった。核武装という日本の選択より以前に、日本は、核を保持する、したがる国々の国家戦略をまず、直面する現実として理解する議論はもうタブーではないはずだ。危機はそこにある。目をつぶってシラナイヨ、タブーなんだと言っても、あるんだ。目の前に。

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