佐藤けんじ

佐藤けんじ 道南発、日本の未来。

佐藤けんじ
コラム
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No. 52 /2006/9/23
新宰相

江戸湾から眺める富士山の美しさを絶賛したのはアーネストサトウだった。
アメリカ大陸の乾燥した世界から戻ると、日本のしっとりした命の輝くような美しさに感嘆し、自分が日本人であることを、いやというほど感じてしまう。
美しい国、日本を掲げ、さっそうと若き自由民主党総裁が誕生した。
ブリティッシュトラディショナルな服装、議会制民主主義と日本の伝統を語る、バーク流の保守精神の体現者として、日本の政治に安定感を呼び戻してくれるか、大きな期待が集まる。
改革のキャッチフレーズポリティクスは官から民へと、イエスかノーかと分かりやすく、存在する制度の外部性や適応力の高い合理性をしゃにむに押しつぶしても進んできたけれど、年金の世代間の公平性と環境の持続可能性が、私たちにも昨日・今日・明日が政治の対象時間であることと、日本の国が高齢化と過疎である現実もしっかり思い出させてくれているのである。
決意さえあれば、皇室の伝統でもいとわず変える、まるで伝統という言葉が死語であるかのように、容易く社会もいじくれるという、遅れてきた近代主義者の残像劇は終わった。むしろとっくに時代は遷っていたのに、である。
あるべき社会像を正義の規範で、つくりだそうとしたしたロールズの政治哲学も未完のまま、公と私の二元論に戻り公共哲学へと抽象度を高め、グローバルな文化の多元性の桎梏は、パックスアメリカーナのハンドリングすら破壊するのに、中期の課題となった憲法議論にも超越するような立憲主義が、静かに顕わてきているのに、である。
むしろ思い切り古典にもどるシュトラウスの古典的保守主義が、あるべき社会像の多元性を拒絶し、外延の暴発を切り捨てる、危機の外交に分かりやすく体現されている。
うまくいかなくなると立ち止まり、初心に帰る循環論法も、大きな真実であると納得して、2000年の間、政治サイクルは廻り続けるだけだろうか。
唯一、近代技術がつくりだした利便性の影に、見直しの再帰性が要求するサブ政治だけが、日々の暮らしの中に、不安の動機付けを武器として、ラディカリズムの「地域主義の衣」を着て、センセーショナルなモグラたたきのようにあらわれてくる。
若き次の宰相は、多彩な分野の人々とともに日本の現況をどの視座から切り込んで課題に取り組んでいくか。70%の支持を切る切らないなど、どうでもいい議論で足をひくのではなく、今はまずわれらの若い宰相を支えていきたい。是非、お体は大切にしていただきたい。

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