佐藤けんじ

佐藤けんじ 道南発、日本の未来。

佐藤けんじ
コラム
過去のコラム一覧へ
No. 48 /2006/8/23
ネットは集団分極化する

報道関係のテレビ番組のなかで、テーマの賛否を問う電話投票を併用しているのがある。番組の最終のころにはどう変化するのかなぁ、とみているけれど、番組の最初からほとんど傾向は変わらず「なんだ、なんのために電話投票させてんだろう」と思うことがあった。
考えてみれば、筑紫哲也さんの言うことが好きな人は、出てる番組をみるし、滝川クリステルさんが見たい人はフジテレビの論調が好ましいと思っているわけで?ある方向性を持った考えの人たちが、若干の差異があっても最初から受像機の前に揃っているわけだ、番組をみて変わるというより、変化しない基本論調に安心するというのが本音ではないだろうか。
それでも限られたチャネル数はいくつかある限られたランチ定食メニューから選ぶように、事前に予測可能な、このチャネルはまぁこんな扱いだろう。と、いう居心地のよさを私たちに提供してくれるわけである。
電気通信の業界にいたころから、インターネット系のフォーラムや今はやりのブログが果たしてテーマの展開としてどのような特性を持つのかが気になり、いくつか参加したことがある。
結論を言えば、失望して退出した、立ち止まる熟慮の意見などまったく議論にならない攻撃だけが行われた。いつからできていたものかにもよるが、中途参入した段階でも極めてハイテンションでありキャス・サンスティーンがサイバー・カスケードと名づけた効果の現実性は存在する。
しかしこの効果のはじめの一歩が、ただのネタ、真偽よりもただ話題提供のうわさから始まったとすれば、その後のプロセスはどうなるだろうか、無駄な議論の積み重ねと、分極化は何の意味があるだろうか。沈黙の螺旋もボリュームがあればマスメディアが拾いにくることで、政策的結論は現実の様相を帯びてしまうのである。
私たちが対話や議論をより有効に活用する道具と考えていたインターネットも、デリバレィテブ(金融のデリバティブではありません)デモクラシー、討議型とか熟議型の民主主義の機能性に、促進の側面だけでなく限界も与えている。

Copyright (C) 2003-2008 Satou Kenji, All rights reserved.