佐藤けんじ

佐藤けんじ 道南発、日本の未来。

佐藤けんじ
コラム
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No. 43 /2006/5/16
歴史による審判へ

経済は一流、政治は三流と言われていたのは何時頃までだったろうか。
資産インフレ後の景気回復に向け、断続的に実施されてきた財政出動は継続性が困難となり、金融政策はゼロ金利という究極策で流動性のわなに入ったままという裁量政策の手詰まり感を強めた時期であった。総需要管理が困難となれば、残りは供給側の誘導策しかなく規制緩和による市場化への機会の拡大、地域毎の起業家育成支援が実施されてきた。政府は視点を機動的なフロー管理からルール化によるストック管理に移さざるを得なくなり、長期の対応策が必要となった時期である。
社会主義の実際の崩壊は資本主義の多様性に目を向けさせ、離陸を終えた資本主義の先進国が共通に抱えている問題は当然日本にも当てはまり、成長のばら色の夢のデジャヴを見る成熟期に日本は既に入っている。日本が特殊であるのではなく国々は個性を持っている事が当たり前で、選ぶべき政策もまた歴史的な遺産を前提にして異ならざるを得なくなっている。単一の国家目標となる理念型ベストモデルなどありえないのである。
構造改革(構造がどこまで何をさすのかはよくわからない)が、あくまで誘導策でしかなく、目標が日本型資本主義の将来にプラスかマイナスかは、政策がターゲットとした受益主体の変容に委ねられたのである。
日本人は目標が明瞭な大きな変化には強いけれど、どっちをむけばよいかわからない中規模な原理による変化にはかなりメンタルに弱いのではないだろうか。
歌舞伎の見得をきるような大衆芸能の伝統のわざを、現代政治の状況に見事に見せてくれた小泉総理は稀代の指導者であった、か。

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